他人の気持ちが慮れないっていうのはこういうことか。

こういう記事がありました。

この記事については僕の体験とも被るところがあり、非常に共感できる内容でした。
すっげー簡単にまとめると、
勉強ができる子は(同級生・親・教師からの)いじめや差別の対象になりやすい。
それは、「勉強ができる」ということが一般的に言われる「子供らしさ」からかけ離れているからだ。
そうやって「子供らしさ」で「勉強ができる」子供を差別する風土が、科学技術発展の阻害の一因になってるんじゃないか。
って感じの内容です。詳しくは元の文を読んでください。
この記事を書いた人を以下「理系さん」とします。


それに対する記事として、こういう記事がありました。

この記事を書いた人を以下「ハックルさん」とします。
で、ハックルさんの意見がなんか的外れっぽいなー、と思ったのでいろいろ書くことにしました。


「他人の気持ちを慮れないことが蔑まれた原因だ」なんていう刺激的なタイトルなので、ハックルさんはよっぽど他人の気持ちを慮る人なのかと思いきや、いきなりパンチが飛びます。


理系さんの

たとえば体育や音楽でずば抜けた能力をもつ場合、その子は胸を張っていられる。

でも、「お勉強」の教科に秀でている場合、その子はそれを無邪気に誇りに思うことはできないばかりか、後ろめたいことのようにすら思うことを強制させられる。

この非対称性は、なんなのだろう?

どうにも不思議だ。

なぜ、かけっこが速くてもいじめられないのに、勉強ができるといじめられるのだろう?

という考えに対し、この意見

この一節から分かるのは、この人が、「体育のできる子」や「音楽のできる子」の気持ちを、少しも考えたことがないということだ。彼らの内面に思いを馳せたことなど、これまで一度もないという事実である。


もうこの一文からして、慮ってない。この一文を投げつけられた人の内面に思いを馳せたら、「少しも考えたことがない」なんて言葉が出て来ようはずもない。それでもこれほど過激なことを言うんだから、「もっともだ!」とひざを叩くような話をしてくれるのかな、と期待して僕は読み進めました。ところが、この後の展開がひどい。ハックルさんは続けてこう言います。

それは、ほんのちょっと考えれば分かることである。「体育や音楽でずば抜けた能力をもつ」子供が、「それを無邪気に誇りに思うこと」などまずあり得ない。彼らは、たいてい強烈なコンプレックスを抱いている。特に勉強ができなければ、そのことをいつも後ろめたく思っている。それは、彼らがいつだって周囲からこう言われてきたからだ。

「勉強しなさい。運動ばかり(音楽ばかり)できたって、そんなのは、大人になれば何の役にも立たないんだから!」

そうして、自分の体育ができる能力であったり、音楽ができる能力を、心から誇らしく思うことができないでいるのだ。


ほんのちょっと考えれば、理系さんと話がかみ合っていないことが分かります。


「体育や音楽でずば抜けた才能があるけれど勉強ができない子供」は、勉強が「できない」ことで圧力がかかる。だが、体育や音楽の能力については素直にみんなから賞賛され、「俺は勉強できないけど、サッカーは得意」などと自尊心を満足させることができる。
「勉強でずば抜けた才能があるけれど、体育や音楽ができない子供」は、体育や音楽が「できない」ことで、やはり圧力がかかる。それに加え、勉強が「できる」ことで、子供らしくない、と言われて大人から疎まれたり、同級生からも「気持ち悪い」などと言われてしまう。「私は運動できないけど、勉強は得意」と素直に自尊心を満足させることができない。
理系さんが問題にしているのはこのことですよね?


「筋肉バカ」が「バカ」の部分について馬鹿にされるのはある意味しょうがない。「ガリ勉」だって、運動ができないなら、そのことはいっくら責められてもしょうがない。だけど、「ガリ勉」であること自体を馬鹿にされたら何を信じて生きればいいの?っていう話をしているのに、「筋肉バカ」だってバカバカ言われて辛いんだ!って言われても絶句するしかない。


そして、この人はこの間違った論理展開をもとに、相手に対して
「ねじくれてる」だの「ナルシスト」だの「国語を勉強してない」だの言いたい放題言うわけです。
その中でも自分的に一番引っかかったのがコレ。

体育や音楽でずば抜けた才能を持つ子だって、いじめられる子はいる。「体育ができる子」や「音楽ができる子」だって、十分蔑称になり得る。この人は、それこそ勉強ができたのにも関わらず、なんでそんな簡単なことが分からないのだろうか?


「勉強できるのに、なんでそんな簡単なことが分からないの?」
これって、勉強できる人をいじめるための常套句ですよね。経験がある人、たくさんいると思う。
主に教師とか親がよく使います(笑)


この後もハックルさんはガンガン飛ばします。


理系さんの

また、女子がなかなか理系に進学しないことの原因の一つも、ここにあるのではないか。


好きな男の子に「お前は頭いいから、俺とは違うよな」と言われて、胸をえぐられるような思いをしたり、女の子グループに「ちょっと勉強できるからって、大きな顔しないでよ」と仲間はずれにされたことがきっかけで、勉強、特に理数系から遠ざかる女子は、きっとたくさんいると思う。

というちょっとほろ苦い青春エピソード(?)に対して
ハックルさんは

例えば、スポーツで身を立てたり、音楽で身を立てている人は、少しの例外を除いて、たいていは周囲から反対されたり、理解されなかった経験を持つ。

「そんなこと、やってどうなる?」と、彼らはその道に進むことに反対された経験を持つ。

しかし彼らは、その反対を押し切ってその道に進んだのである。だから、彼らには、好きな人に理解されなかったとか、女子のグループから仲間はずれされたことなどに対する、ねじくれた被害者意識などない。むしろ、そういう逆風が自分を奮い立たせる原動力になったと、感謝の念すら抱いている。

しかしこの人は、好きな人に理解されなかったからとか、女子のグループから仲間はずれにされたことがきっかけで、勉強をやめてしまったり、あるいは理系の道を断念してしまう人がいるという。そうしてそれを、ことさら問題であるかのようにかき立てるのだ。


逆境に打ち勝って頑張ったアスリートと、ただの勉強好きの女の子を比べてしまうこのマッチョぶり!
ちょっと落ち着いて、とお茶を1杯差し出したくなります。


アスリートを目指す子供が受ける批判は、「プロになれるかどうかもわからないのに、そんなことを続けてどうするんだ」に集約されます。でもこの批判は、努力を続けてプロになれれば、大きな賞賛へ昇華される。それが、モチベーションの原動力にもなる。だいたい、この類の批判は大人からのものがほとんどです。思春期の子供にとって大人からの批判がなんだと言うのでしょう。同級生の間ではヒーローです。そして、ただの運動好きの子供はそもそも批判とかされない。


ただの勉強好きの女の子が受ける批判は、「勉強ばっかしてるなんてキモーい」なんです。プロ(=研究者)を目指す女の子が受ける批判も、やっぱり「勉強ばっかしてるなんてキモーい」です。それにもめげずプロになったとしても「キモーい」と言っていた人の評価はやはり「キモーい」なのです。しかもこの「キモーい」は同級生や好きな人からの「キモーい」なのです。思春期の女の子にとって、それがどれだけ辛いことか。


そんなわけで、好きな人に「勉強ばっかりしてる女はキモい」と言われて勉強から離れてしまう、ただの勉強好きの女の子がいるのは想像に難くありません。その子は別に、三度の飯より勉強が好きで勉強のプロになるつもりではない。ただの勉強好きなんです。デブは嫌いって言われたから甘いものを我慢するように、勉強を我慢するんです(そして人の見ていないところでつまみ食いをするように勉強してしまう)。それってとっても文系的な、情緒的な心の動きであって、人に対して「国語を真剣に勉強していなかった」などと批判できるくらいに国語を真剣に勉強してきたのなら、そのくらいのことは想像してほしいですよね。


ましてや理系さんは、憧れの人にキモいって言われて勉強を諦めてしまうただの勉強好きの女の子ではなく、勉強が大好きで大好きで、色々な批判を受けながらも東大卒の課程博士を経て今に至った、いわば理系のアスリート女の子なわけだ。
しかしハックルさんはそんな理系さんに対して、「本当は機械のように言われてやってたんだろ?」「功名心の塊なんだろ?」と書き立てるのだ。


そんな言説は、ちゃんちゃらおかしいと言わざるを得ない。そんなことは、子供だましだ。そういうことを言っているから、日記を書いているのも、「はてブ稼ぐためにわざと刺激的なこと書いている」のだろうとか、「はてなーに気に入られたい一心の功名心の塊だ」ったと思われてしまうのだ。